髪型差別


「オバちゃんみたいやな」
中学生の頃、友人連中に笑われた。

初めてパーマをかけた。
「デヴィッド・ボウイみたいにして」
と床屋にお願いしたはずだった。
中学生の自意識は、嘲笑に耐えられ
るほど強くなかった。

(二度とパーマをかけるまい)

今ではパーマに耐えられる毛髪量では
なくなった…

今ならわかる。
友人連中は自分のテリトリーを
荒らされたくなかったのだ。
「現状維持したい」というテリトリーを。

自分らの遊び場にデヴィッド・ボウイが
来たら、そりゃあビックリする!
現状がぶち壊されるからだ。

「人は、差別主義者に生まれるのではなく、
差別主義者になるのである」

著者のトニ・モリスンはアフリカ系
アメリカ人初のノーベル文学賞作家だ。

風習、教育その他環境因子が、
無意識レベルで「よそ者」を育て上げる。

デヴィッド・ボウイでさえも、昭和の
大阪の中学生には差別されるのだ。

差別がなくなればいい

ほとんどの人がそう思っているはず。
だけど、続く言葉がある。

差別は人間の本能だ

どのレベルで本能なのか?
「生まれながら」ではないのだ。
自分の中で「育て上げる」という
本能的能力を持っているだけなのだ。


「よそ者」認定してしまったときに、
「なぜ?」「どこから?」
心の「起源」と真剣に対峙する。
人類全員がそうする日が来れば、
「差別」を克服できるかもしれない。


たまには壮大なテーマもいいでしょ。

お答えできません

早い話が
「答え」と「応え」は違う
ということだ。

「応答」という言葉を長い間、
素通りしていた…

「答える」は「さがす」ことだ。
相手の質問に対し、自分の記憶の
どこかから引っ張り出す。
「言語」VS「言語」って感じ。

だから「答え合わせ」できる。

「応える」はもっと感覚的なものだ。
「反応」はあるが、「反答」はない。
「応用」はあるが、「答用」はない。

むしろ真逆な感じがする。

明確に「答える」ことができなくても
「応える」ことはできる。

だから「手応え」という言葉がある。

「応える」は本能の近くにある。

研ぎ澄まさないと出てこない。

明確に「答え」が出なくても、
相手から「答え」を引き出せなくても
あきらめない。

何らかの「応え」を感じ取る。

先人たちは「答え」がない道で
「応え」を積み重ねた。
ニュートンもアインシュタインも。

「応え」も積もれば、宇宙まで上る!

自分にとっては大事な気づきだ。

話は替わるが、最近「応接間」を
見ないし、耳にしない。
昔は金持ちの家には必ずあった。
(金持ちの家に行かないからか…)

イイ響きだし、イイ言葉だと思う。

自分にとっては大事な気づきだ。

自己犠牲というDNA


ハサミムシの雌は卵を守るために

ハサミを使って外敵を追い払う。

虫の世界では珍しいことらしい。
産みっぱなしがほとんどだからだ。

ハサミムシの母親は
産まれたての赤ちゃんたちに
自分の体を食べさせるそうだ。
食べさせている間も、外敵が来ると

ハサミを振り回して追い払うそうだ。

不覚にも泣いてしまった(今も少し)。

これを「愛」などと解釈するのは人間だ。

DNAに書き込まれている本能なのだ。

考えてみた。

ハサミムシから人間をみたとき、
泣けるエピソードはあるだろうか?

人間のお母さんの行動を見てみる。

安定の悪い二輪車に乗って、
鉄の塊の四輪の隙間をかいくぐり、
食糧を調達する。
刃物を使って、恐ろしい火を使って…

すべては家族のために…

その光景を見たらハサミムシも

涙を流すかもしれない。

主婦だけではない。

お父さんも見てみよう。

もみくちゃにされて
低酸素の電車に乗って出勤。
仕事が終わると、自傷行為と思える
冷たい飲み物で内蔵を冷やす。

なかば強制的にアホになる…

そして、お父さんもお母さんも、

血液と比喩されるおカネを払う。

自己犠牲の精神は虫のそれと比べて

遜色ないのでは?

虫と違うのは、本能ではなく、
すべて教育の成果だという点である。